何かに自分の姿が映るのが不気味に思えてきて、駅のエスカレータの左右についてる真っ黒でまっさらな壁とか、車の窓ガラスとか、ショーウィンドウだとか、そんなものを必死に避けて通った、今日はそんな一日。雨が自意識を刺激したのかとか勝手に分析したけど、もしかしたら、ただそういう態度を試してみたかっただけかも、俺の身体が。

寺山修司は僕らの味方だ。味方だからこそ、抱きしめたあとにはさよならしなくちゃ。とかネガティブなことを考えながら読んだんだけど、つまりは、大槻ケンジと似た立ち位置にいるのでは、というかそういう捉え方もあるということ回りくどいぞおらあ。

しかし聞かなかったふりを決め込まれて、アジテートってものがそもそもなりたたなくなってしまったら、いくら一点豪華主義!一点破壊主義!と叫んだところで弱いよなあと思った。耳を塞がれないようにすることは、とても気を使う問題だし、声高に叫ぶだけじゃだめだし。そういう現在でのアジテートってどうすればいいのかという問題を考えつつ。東京の風は冷たいし雨は降るしこの野郎

しかししかし、時代としてとらえてしまうのは、もちろんひどくつまらないことで、文化に触手を伸ばして、それが時代を超えて徐々に深く広く根を張って、うねうねと生き続けて今にちゃんと届いているのが、寺山修司のすごさなのだろう。そういうふうな文章を生み出せるってことは、それ相応にタフなんだと思う、やっぱりボクシングやってただけある。

寺山修司が脚本の「毛皮のマリー」のポスターを三茶で発見したけれど、どろどろとした色で塗りたくられていて、やっぱり今も強烈に生きているなあ、と確認したところ。

無題

2009年10月2日 日常
行ってしまうぞ、行ってしまうから、俺にくっつけ、俺に全部くっつけ、この俺も含めて。
隙があるようでいて逆に隙を見せると爪で引っ掻かれそうな迫力はもはや仙人のごとしででもケッケッケて無邪気に笑うんだ可愛いかった




どーにかこーにか流れていってくれればそれでいいと思ってるし最終的に笑っていられたらそれでいいんだけどもっとすべての価値観をひっくり返すような何か面白い出来事が起きないかと思ったら逆に世紀末のイメージばかり抱え込んでしまって駆け込み乗車したあとに電車の中で吐きそうになったぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんどんどんあぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ(マシンガンを連射)結果的に穴だらけになった人間を向こう側からのぞいて記念撮影でもすればいいんだピース!ピース!ピース!けけけ(狂
ただただ現実を憂うばかりで、どうしようもないねえ、うんどうしようもないと頷きあって、虚ろな目で遠くを見ながら涙を流しているだけで、それは結局自分が好きなだけじゃないですか!
そういえば、深津絵里が主演の、春琴抄の演劇を下北でやっていたのは、2年ぐらい前のはなしか。演劇にするにはどうすばいいかとか、考えながら読んだ。佐助が針で目をさして二人でラブラブするところは、どんなふうにするんだろう、普通にラブラブさせるのかとか、笑わせてしまうのかとか。春琴は、やっぱりかなり戯画化してかかれるんだろうなあ、子供を始末したってええ!とか今から考えるとその残酷さも度がすぎているというか。眼が見えない人は、なにかを悟ったような仏のような表情をしているっていうのは、どこか他のところでもきいたことがあったし、ああなるほどと思った。なにかが足りないという美しさ、と、それを笑うバランスと、どうやってとるんだろうというところに、ただならぬ興味をそそられたました俺は
散らしたら集める。繰り返し。
箒の叔母さんに敬礼!


気になっている映画リスト
USB
ユリイカ
サマーウォーズ
空気人形
色即ゼネレーション
しんぼる
読了。
春琴沙も読了。

こ、これは!
どっちもめっぽうオモロかった。お腹一杯。
クンデラの方は、
時間と、思想と、哲学と、
もうぐるんぐるんまわって、一本の糸に収束していって、
それらが人間の形になって、それぞれ物語の中で生きている。
貫かれる普遍性。
個々のドラマが時代(プラハの春!)っていうドラマで結ばれていて、
それを人間というドラマで包み込む構造はもしかしたらありきたりだけど、
ちゃんとひとりひとりに戻ったときに、消えない。濃い。
舞台監督としての采配も、見事だから、役者はそれぞれの仕事に没頭できている、そういう演劇。じゃなくて小説。

そして、いくつかのナイフが与えられていて(重さ軽さとかキッチュとか)、それぞれがずぶずぶとこの小説に食い込んでいる。
ナイフひとつひとつを抜いたりもう一度刺したりして、いろいろ考えてる。




最近youtubeでごっつを見てる。
らーめんずも見てる。

らーめんずの雀とか椿あたりの台詞を眺めながら、
らーめんずがなんで面白いのか説明しようとしてにやにやしている。
憑依!
建築学科の知り合いに連れられて、2泊3日で新潟まで旅行に行った。
行き帰りバスで行ったんだけど、往復6500円弱。それで池袋から3時間しかかかんないんだから、かなり上等だと思う。

自然の中に巨大な蟻だとか、悪趣味な模様のもはや爆発寸前という感じの怪しい花(芸術はなんとやら、ですよ。)だとか、田圃耕してる人のシルエットだとか、犬アンドロイドだとか、異様の限りをつくすオブジェ?作品?が自然の中に突如ドーンと現われるんだけど、それをひたすらみて回った。
他にも虫みたいな形の建物やら、天井が開閉して青空がお目見えする屋敷だとかあって、作者はどうして大自然のど真ん中に作品をドーンと出現させる必要があったのか、とかそれらしいことをなんとなく考えながら回ったんだけど、どうにかこうにか友好的な接触を図ろうとおそるおそる自然に近づいてゆく人間、という感じがした。自然に半ば媚を売りつつ、そろりそろりと侵入してくるようなこういう人間の態度は、なんだか薄気味悪いぞ!もはや気持が悪いぞ!というのが最終的な感想。浅はかですみません。とは思いつつ、でも自然のご機嫌うかがってる感じはやっぱり気持ち悪いと思う。

最近可愛くなった篠原ともえが現地に来たらしくて、ものすごい会いたかった。

ミルク [DVD]

2009年9月27日 映画
ガスヴァンサントの映画は、押し並べて好きだけれど、これは「ほんのり色気のあるなよっとした男たちがラブラブする映画だったよ」という感じだなぁ・・・・分からん。別にホモがたくさんでてくるからって感情移入できなかったわけでは決してないんだけれども。公然と同性愛者をけぎらう発言を、ヒステリック気味な女の下院議員立候補者がしていて、そういう時代だったというのと、極端でもなんでも思想が政治にはっきりと反映されている!it’s America!というのに、ビビったけれども。
これ見てから、エリーゼのためにと月光をピアノで練習して覚えた。校庭の空を、忘れないようにしようと思った。

ついでに言うとカメラも始めた。あの、校内を歩いてまわるカメラ部の人の視線と表情が記憶に残ってて気になったのと、もくもくとプリント現像する様子だとか洗濯バサミにフィルムはさんでほしてる部室の様子だとかが気に入ったから。

あらゆる場面が、壁の白と窓から洩れる空の青の中で起こっていた印象を受けた(アメリカの高校生って、きっとこれとだいたい同じ色の中で生活しているんだろうなとか思った)凄くピュアでプレーンで、そこで、同じ建物ん中で、すべてが起きている衝撃ってあるよなああああ。痛いよなあ。痛いよ。忘れたくないし、忘れない記憶として、ある。凄まじいなああ。あああああ。重い、あうっ。ひとりひとりひとり
攻略するのが楽しかったのは8。
プレイ中の充実感があったのは9。

やっぱり純粋にゲームとしては、数字さかのぼるほど面白いのではという予感がする。単純な方が、クリアするやる気がでるというか、頭使いやすいというか。
まあとはいっても、やり始めたらクリアはするまで寝ないのだけれども。寝れないのだけれども。
クリア意外に手間取ったー。ラスボス4形態とか聞いてないー。
この夏、愛飲いたしました。やっぱジュースっていいよねーいいよー。


ていうかdiary note、食べ物のカテゴリー作って欲しい。
てのが美味。クッキー部分のサックリ感も、チョコの甘さも最強。

つぶやき2

2009年9月27日 日常
いつまでもまっさらなままの自分だと思っていたらそれは間違いで、そもそもまっさらな自分であるときなんて、あるんだろうかかたときでさえ?
やいやいやいのやい!

ちゅいーっす。

2009年9月27日 日常
この俺は、少なくとも俺だってことで、少しの間踏ん張れる気がする。
と言って重力にあらがって、すっくと立ち上がる人間、俺。
別に偉いとか、そういうことではない。
先輩の場合、むしろエロい、すよねーグヒヒとか、きまりきった、しょーもないことを言うつもりもないし、それじゃあそんじょそこらのテニサーと変わりないじゃないか!(テニサーへの偏見の塊!こういう!は海外文学の和訳本に出てきそうだとなんとなく思った!あとはドラクエ!効果音付きで!やっぱり違った!逃げろ!)

ULTRA BLUE

2009年9月26日 音楽
fistもsecondもキラキラしてていいけど、キラキラしすぎてて笑ってしまうから、俺はこのアルバムが一番好きだ。宇多田ヒカルって、暗いよなー、ていうかちょっともう怖いぐらいだよなー、でもいいよなーという、これ。blogも見てるけど、やっぱり面白い。楽しい。
俺も暗いから面白いのかもしれないなー暗くてもいいじゃんうへへーい(踊り狂う)




キモイ人っていうのはどういう人か考えたときに、やっぱりキモくない人は「お前踊れ狂えよ」「いや、俺はいいっすいいっす(笑)」とか遠慮するだろうから、人目を気にせず踊り狂える人ってのはキモイことの一つの要素に違いない。

などとレビューに合わせて、頭ん中のちりちりを乱れうちするわけだけれども。
もともとの本題の喪失というか本題そのものがあったのかということについてだけれども。
あ、本当の自分を探す的ななにかで、義務感という名の元に自分を苦しめぬくという昨今の自虐的な風潮と関係がありそうなことは、回避しておくことにするやはり俺は。
(忍者のごとくさらりと回避はできない場合には、ぶっ飛んでごまかすっていうのは、もうそろそろ通用しないということには気づかなくちゃいけない。私てば、お・バ・カ、てへ、とか可愛い子ぶるのも、NG。)

ようするに元に戻ると、キモイ人がどのようにキモくあるべくして、キモくあるのか、ということに俺は最近興味があるという話。別に俺キモイだろて言いたいわけじゃなく、俺キモくなくてよかったーセーフ、と言ってるつもりではない。
んー、もっとキモイということの鋭いイメージがあるはず。キモイとは何か説明するための。ん、それはこの文章・・・・はっ!とかになったら負けなんだよなむむむ。
キモイっていう言葉は、そもそも会話の中で、ブッ飛び過ぎた人へのストッパーとして、便利。それだけ万人の中でキモイ・キモくないの境界線がきっちりしていて、各々が違う経験から、キモイのイメージを重ねていって、似たようなキモイのイデアに近づいているんだから、これは凄いぞ。キモイはスゴイ!アホかアホだだドゥワーッ!!(大気圏までジャンプ)
それは臭いものには蓋をする的な何かが日本人的で、とか外側から固めていく議論はつまらないからしないことにして、別のアプローチを探している、なんかないかなあ。興味があるのは、身体的な気持ち悪さ。やっぱ踊りか。おもむろに踊り出すしかないのか。(怪しいなー!)


というようにして、だんだんと収拾がつかなくなっているけれども。
さあ君も「キモイ!」の壁の向こう側へ。君って誰だおいお前お前は俺だあうあうあー(ふぇいどあうと)

つぶやき1

2009年9月26日 日常
乞食にも遊牧民にも固定資産税がかからないわけだけど、ていうことは乞食は現代の遊牧民だね!って満面の笑みで言われても困る。
去年のカウントダウンジャパン見に行ったんだけど、そこで志摩遼平を初めてみて、やっぱ痛かっこよかった。Tシャツ買っちった。



ちょうどその頃志摩のblogのコメント欄が炎上してて、志摩がマジレスするものだからもう際限つかなくなって、結局そのあと閉鎖してた。そういうのって、時間差攻撃ぐらいでよいのに、て思った。マジレスしたら大人げないぞみたいな空気があるときに、はらはらしている読者の皆さんも安心させつつ、かつ、たまってきているイライラを上手く解消するなんて神業みたいなこと、宇多田ヒカルとかならうまくやるだろうなーすげえぜ歌姫は違うぜって姫っぽい歌姫ってなかなかいないよなとか他愛もないことを今日も。

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