何かに自分の姿が映るのが不気味に思えてきて、駅のエスカレータの左右についてる真っ黒でまっさらな壁とか、車の窓ガラスとか、ショーウィンドウだとか、そんなものを必死に避けて通った、今日はそんな一日。雨が自意識を刺激したのかとか勝手に分析したけど、もしかしたら、ただそういう態度を試してみたかっただけかも、俺の身体が。

寺山修司は僕らの味方だ。味方だからこそ、抱きしめたあとにはさよならしなくちゃ。とかネガティブなことを考えながら読んだんだけど、つまりは、大槻ケンジと似た立ち位置にいるのでは、というかそういう捉え方もあるということ回りくどいぞおらあ。

しかし聞かなかったふりを決め込まれて、アジテートってものがそもそもなりたたなくなってしまったら、いくら一点豪華主義!一点破壊主義!と叫んだところで弱いよなあと思った。耳を塞がれないようにすることは、とても気を使う問題だし、声高に叫ぶだけじゃだめだし。そういう現在でのアジテートってどうすればいいのかという問題を考えつつ。東京の風は冷たいし雨は降るしこの野郎

しかししかし、時代としてとらえてしまうのは、もちろんひどくつまらないことで、文化に触手を伸ばして、それが時代を超えて徐々に深く広く根を張って、うねうねと生き続けて今にちゃんと届いているのが、寺山修司のすごさなのだろう。そういうふうな文章を生み出せるってことは、それ相応にタフなんだと思う、やっぱりボクシングやってただけある。

寺山修司が脚本の「毛皮のマリー」のポスターを三茶で発見したけれど、どろどろとした色で塗りたくられていて、やっぱり今も強烈に生きているなあ、と確認したところ。

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