報告。

2012年10月14日 日常
紆余曲折経て、大学院で数学を勉強することになった。とても忙しいが、それなりに充実している気がする。
留学を考えて先日Toeflを受験したが、想像以上の英語力の低下に愕然とした。
おそらく、まだしばらくは日本にいることになりそう。いずれ、海外逃亡を企てる可能性はあり。

最近の生活は、主に数学の本を読んでいて、時々ギターを弾いている。
ギターはIncubusの良さに再び目覚め、ちょこちょこと気に入ったフレーズをコピーしている。へんてこで、きれいなコードが多い。

誰が見ているか分からないけど。とりあえず現状報告。
地に足のついた生活の大切さを忘れないようにしなくてはなあ、といったところ。
うまく言えないけれど、ひとつひとつの小さなつぶやきが、たくさん集まって大きな音になってせまってくるような(イメージ)、そんなことがしたかったんだと思う。この日記で。

そのひとつひとつは、自我からはみだした無意識が形を変えたものかもしれない。それ単独だと意味不明なものだったりするけど、それを片っぱしから潰していく作業よりは、どうにかして残しておくほうが面白いんじゃないかと思っていた。それらひとつひとつをつなげて全体を眺めた時に、何か面白いことが分かるんでないかい、と俺は思っていたのだった。

ただ読み返すとやっぱりいろいろ気になってきて、むきになって考えてもいないような言葉を絞り出しても、それは大げさで無意味で、ただ余計な誤解を増やすか、読んでいる人をイライラさせるだけのことだと思う。とか。そしてそういう日記は大抵つまらない。自分で読んでいて赤面する。うわーってなる。自分で自分に愛想を尽かしそうになる。とか。うーむ。いろいろ感じるし考える。

たぶん俺は、場合によっては、この日記だけを見て自分という人間が評価されることがあると思っていて、(そもそもリンクしている人はほとんどがリアルには知らない人。つーかリアルってなんだ。)、それが怖くって、だからこうやって自己弁護みたいな文章を書きたくなるんだと思う。
そもそもブログって延々と続く自己弁護じゃ、とかいう議論はどこまでも続いていくから、その件についてはこれ以上立ち入らないで放置しておく。それに、まあたぶんその通りだ。



なんかやたらと説明っぽーい。
吐き気。

しかし説明するのを完全に放棄しちゃう怠惰は、逆に少なからぬ面倒を増やすので。だからときどき自己弁護。



そうそれで、その無意識の産物(?)たちを、自分アホっすねーと思いつつ痩せ我慢して長い間放置してきたけれど、被験者自分の無駄に長くて不毛な実験期間、ここに終結を宣言。宣言!

もしまた別の形で続けることになったら、ここに書く。あでゅー
昔の日記にコメントするのは、過去の自分に言い訳するようで嫌だけど、
いやしかし正直なところ、
「これはキモイなー!」と思わずひとり唸ってしまった部分も多い。

キモイ通りこして、もはや笑える域に達しているものもあって、
もしかしたらいつか飲み会のときに自虐ネタとして活用するかもしんない。

必要以上に書きすぎてるところもあれば、なんかもう思いつめちゃってるところもあるし、端的に何かを言い当てているようで、少しも本質にかすりもしないクエスチョンマークもある。ようするに文章が分かりにくい。それがおそらく全体の8割を占める。自分でいうかボケ。

でも、こういう言葉の中で生きてました、ということなのだなー、と思っている。その記録。今のところ、特に消すつもりはなし。

とりあえず、今までの日記読んでて面白いと思った部分は、腹抱えて思い切り笑ってくれて結構。

無題

2009年12月2日 日常
時々ミドルネームが欲しいと思うときがある。
そしたらもっと高く飛べるのに。きっとさ。

無題

2009年10月25日 日常
自分から多くを語ると、ますますばればれなようで、むしろ多くのことが隠されていくことが分かった。
ばればれに見えて結局晒されてるのは部分でしかなくて、
雰囲気で片付けられてしまうような、そういう曖昧なつながりがなぜか次から次に生まれる。

徐々にエゴイスティックになってる。
そう自分で断言するのは気持ちが悪いけど、前に進んでいたら、気付いたら走りだしていたというように、自然に反応して勝手に方向を定めて、動き出している。
予感はより強い予感になって、一歩一歩現実との距離を縮めていて、俺は嬉しくてしょうがないんだけど、ぞくぞくしながら、でもじっとしたまま、眼をがばっと開いて前を向いてる。

近さだとか遠さだとかに、人間はとても敏感で、一方で無頓着を装うことにも長けていて、そういう矛盾を笑いながら、どうにかこうにか平静を保っている。ぎりぎりの瀬戸際で何かを見つけるのが人間で、自ら命を危険にさらしたりする。近づきすぎていることはわかっていて、それでも触れてみたくって、手を伸ばしたりもする。手が対象に触れるまでに、無数の段階を考えてみて、途方にくれたり、逆に安堵したりする。同じような作業を繰り返しながら、世界との折り合いをつけていく。

そういう一つ一つの作業が、今俺は、楽しくてしょうがない。刹那、その重なり、長い階段の一番上の自分。少しは遠くが見えるようになったろうか。パソコンの画面を眺めながら思う。

乳と卵

2009年10月22日 読書
へヴンを読みたいと思って、そういえばうちには乳と卵があったと思って読んだ。
目の前の現実と思考している自分とが、一瞬一瞬スパスパとナイフで切り離されている感じの、そういう言葉選びがすごいと思った。
あまりにいろんな現実と肉薄していて、俺にも切り離す作業が必要になってくる事柄は、日々蓄積しているなあ、という悪夢を思い浮かべた。
たくさんあるそれらが、皮膚の上にぴとってくっついたまま腐っていく前に、それぞれ意味のある形にして身体の中に入れなくちゃなあもったいないもったいない。もったいないっていう考え方は、脅迫観念まで成長しうる、悪夢の種のひとつ。

異邦人と潮騒も読了。読了日記ほど面白みのないものはなくて、別にタスクじゃあるまいし。タスクはタスクで割りきって、そうじゃないものは、タスクじゃないものを見る目で、できるだけタスク的要素を排除して、向かい合いたいと思うのです。タスクタスクって言ってると、何かプログラムされた機械みたいに冷たいけど、それは言い方の問題だと思う。

日常のささいな出来事で、びびびと細かく反応する感覚やら、一見微動だにしないようで突然ひょこっと動きだす感情やら、面倒なものを携えて、今日もどっこい生きてます。

メモ24

2009年10月11日 日常
一般化されることを避けるために、枠組みを正確にとらえてその外に素早く抜け出す競争に勝つ、っていう方法はあると思う。
こうやって語ってる暇があったら、

メモ23

2009年10月11日 日常
たくさんのサンプルを集めて、法則を見つけてそれらを効率よく記憶して、新しい現実に対処する。

なんていうけど、実際はそんな流れるようにはいかないわけで、そうすると、ひとつひとつのサンプルへの愛情が生まれるんだ、それがより深くなるころに、法則が見つからなければいいんだけど。

メモ22

2009年10月11日 日常
すべてがチープなバラードの歌詞みたいな台詞をはく人。

メモ21

2009年10月11日 日常
無限に続く一問一答の果てにある最後の質問は誰にも分からないけど、どれだけ先に進むかっていうのは、結局自分で決めることだと思った。

メモ20

2009年10月11日 日常
人の見方とか、話したりするときにどの感情に触れるかとか、いつでも一番最初に会ったときのように戻せるようにしておく。

メモ19

2009年10月11日 日常
輪郭をなぞっていって、なぞり終わると形がぱっと消滅していく。
新しい概念(少し複雑)を理解するときの感覚はこんな感じ。

メモ18

2009年10月11日 日常
自分で何をしているのか時々分からなくなるんだって彼女はいってたその横で僕はわかったふりをして頷いていたそれで僕は笑ってごまかしたけどそれはきっと嘘だった彼女は嘘をついていた僕はいろいろ忙しかったどうしても会わなくちゃいけない理由なんてなかったからそうやって僕たちは離れていったそれでなんだっけそのとき何を言おうとしたんだっけさようならじゃなくてもっと別のなにか美しくないものうるさいなだから電話をかけてこないでよ僕に足りていないものは届かなかったなにかじゃなくて届いていたけど気づけなかったなにかなんだと思うもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもし


そうやって繰り返される情報の交換。
おかげで僕のアンテナはボロボロだ。
今日も空は青かった。
たくさんの笑い声を、笑い返す勇気があれば、といつも思う。

って彼女は言ってたんだ。そう、やっと思い出せた。

つぶやき3

2009年10月9日 日常
トモダチー、のような感じで、ケダモノー、っていう団体があったら、少しは心をひかれちゃったり、、、しないよな、しないよ。うん、ない、ないわ。
実は不透明でした。真っ黒でした。色で表せないぐらいに穢れているのでした。
実は形はひどく崩れていました。輪郭などないのに等しいのでした。
それはきっと美しいのだと、私はただ信じていただけなのです。

昨日は、

よく晴れていました。だから余計に空虚なのでした。
誰もいないからではなく、たくさんいるのに誰もいないように感じられるのが、ひどく苦しいのと、少し似ています。

昨日は、

たくさんの嘘をつきました。

今日も、

きっとまた少なくない嘘をつきます。

HUTSPOT

2009年10月6日 音楽
ひとつひとつのリズムに合わせて、着実に奥へと進む進む進む進む進む進む進む進む進進進進すすすすすむむむむむそして跳ぶ!

メモ

2009年10月6日 日常
いつの間にか記号的な生活の中にいる。記号を摂取して、栄養に変えて、記号を排出している。記号的に笑って、記号としてのおはようを今日も。
やたら気合の入った訳だったので、こちらもうぉうぉ唸りながら読んだ。
原文は彫り込まれた石像のような文章だとか解説に書いてあったけど、確かに相当にごつい、かつパッションに溢れている。
アッシェンバッハは終始少年のことを舐めまわすように観察するんだけど、ひいてしまうより前に、引きずり込まれてしまうような強引さがこの小説にはあって、自分も一緒になって少年の肢体をじろじろ眺めて、ハァハァする。(いってよしあおによし奈良の都は咲く花のストーップッ!)
でもアッシェンバッハの観察はきめが細かくて、少年のしぐさから表情の変化からことごとくねちねちむらむらと観察しては、思い込みは空を超えてラララ星の彼方。
挙句の果てにコレラにかかって死ぬところは、壮絶、細菌というのがヨーロッパならでは感が出ている気がする。


視線の先の風景とそれによっておこる思考の移り変わりとそれをつつみこむ沈黙と、これは映画的だーということも感じて、最後のほうにアッシェンバッハが狂ってきて顔にお化粧してもらうところとか、上手いこと映像にしたらこれはなかなか恐ろしいぞ、そんで首にダイナマイト巻いてドーンッ!というように気狂いピエロの迫力と結びついたなぜ


最近海外文学の摂取量が増えてきている。
ラストライブに近づくと異様な緊張感が漂い出すけど、このころの向井秀徳は純粋に楽しそうで、深田恭子ちゃんに水色ガール捧げちゃったりして、よいよなあ、と思う。
時は幕末から始まって最後なんでアサヒスーパードライに行きつくのかよくわからんけど、そういうぐだぐだなMCとか、あと一句あと一句、とかで、客のnumber girl愛がじわりじわりと育まれていく様子が伝わってきて、微笑ましいよなあもはや。あああ。


今日はカレーを食べたんだけど、書を捨てよ、町へ出ようの中でカレー派は体制派でラーメン派は反体制派だとかいうくだりがあって、理由は会社からくたびれてかえってきても、家の前でカレーの臭いがするとそんなことは全部忘れてしまうから保守的な幸福論だってことなんだけど、やっぱりカレーはおいしかった。月並みな幸福論は、日常の中にもちりばめられていて、思想だとかの前に、幸福と思える瞬間はやっぱり単純にいい、のだった。ひどくアホみたいなことを言っているが、そういう瞬間が連続すれば最強なのになあ、重要なのはつながることだ、と勝手に結論づけたのだった。

しかしそれは怠惰な幸福論になりがちで、例えばポテチ一日食って家から出ない人は、ひきのばされた幸福の中にいるけど、ちょっと幸福な一瞬一瞬を連続していった結果、幸福の質がどんどんと落ちていってしまっている。これは、もう、だから平凡な幸福論よりも一点豪華主義を、とかいうレベルではなくて、月並みな幸福論を体現することすらできていない。やっぱりふと立ち止まって全体を把握する瞬間は必要で、その瞬間の不幸と、その一瞬あとの幸福を交互に繰り返せば、幸せの絶頂へ。ていうのは甘いか。

だからやっぱりカレーは旨くていいんだけど、偏った一点豪華主義でもなく、かといってだらだらと続くニート的幸福ではなく、それらをふるい分けしていくのは、幸せの嗅覚のようなものなのか、その感覚を磨いていくこと。しかしなんだ嗅覚ってわけが分からない家庭からほのかに香るカレーの臭いなのか幸福とはやはり!


幸福幸福いってると、知らぬ間に宗教の領域に足を踏み入れてしまったりして、そういうのはひどく危険だ。宗教ではなくて、幸福について語れる言葉が欲しい。
涙腺を直接針でちくちくと刺激すると、とめどなく涙があふれてきて止まんないよう、どうしよう。徐々に力が抜けて行って、最後は完全脱力、ぶよぶよになっちまう。

ていう感じの。必殺。生まれて初めて聴いたジャズのCD。不思議なところから入ったものだと思うけど、これがツボにはまりこんで、なかなか抜けられないのだった。

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